公明党 参議院議員 山本ひろし

公明党
No.2126

初雪の街頭演説 (香川県高松市・善通寺市)

早朝、羽田空港から高松空港へ。


街頭演説


寒い朝の街頭


高松駅前


市内の挨拶周りの途中、高松駅前での街頭演説。雪がふり始め、大変寒い。


善通寺駅


寒さの中の街頭(進行 田川善通寺市)


続いて、善通寺市に移動。駅前での街頭演説。


善通寺市 大西ふじ子予定候補


多度津町 すみおか美子町議


女性陣と


内田丸亀市議・田川善通寺市議・すみおか多度津町議・薮内琴平町議・川西まんのう町議・大西ふじ子善通寺市予定候補と共に公明党の政策を訴える。


街頭演説


手をふっての応援


雪がふる寒い中、支持者の方々が応援頂き、本当にありがたい。


御礼の握手


街頭演説では「展望なき迷走予算案」について糾弾。

特に民主公約が行き詰まり、課題解決の視点かきどのマスコミも酷評されている実態を。(下記マスコミ社説など)

「借金頼み92.4兆円。仕分け効果3000億円、先が見える政治決断」朝日
「辻褄合わせはもう限界だ」読売
「改革不在の予算案では日本はもたない」日経
「政権交代の意味があったのか?答えはノーだ」毎日

街頭後、高松市内を中心に挨拶まわり。寒さに負けず前へ前へ。



コメント

  • 井桁 陽子 より:

     いつもお世話になります。ご活躍に期待しています。
    臓器移植法案について、法案成立が移植推進派のからの勢力で参議院でも成立を急ぐ風潮がありますが、良識の府参議院ではしっかりと審議されることを願います。6月30日の厚労委では検証会議の座長を呼んで報告させ、質疑、審議がありますが、7月2日は参考人聴取が始まります。参考人を見ると公平性に欠けた推進側の人が多数を占める人選となっています。慎重派といわれる人もいますが、反対派はいません。検証会議のメンバーから意見を聴きながら、人権侵害があったと告発している弁護士からは意見を聞こうとしていません。移植患者団体を呼びながらドナー側にされかねない全国交通事故遺族の会や「長期脳死」の子どもの親、さらに「脳死判定」は非科学的であるとする医師や研究者も宗教団体も呼ばれていません。参考人は厚生労働委員長辻泰弘議員(A案支持)に一任されて決まったそうです。あまりに偏った人選で、圧倒的にA案に話が流れていく構造となっています。何としてもこのような状況を打ち破らねばなりません。
    このまま参議院でA案が可決されてしまえば、これまでの「呼吸停止・心臓停止・
    瞳孔散大」をもって「人の死」とされていたものが、<【脳死】=【人の死】>となって
    しまいます。人工呼吸器を使っていようが、重度の障害があろうが、
    どの命も精一杯生きています。「死の定義」を変えることは、
    人間のいのちを否定することです。
     推進派の人たちがしきりに「【脳死】が【人の死】だと受け入れられない人は、
    前もって【法的脳死判定】を拒否できるから問題ない。」と言っていますが、
    子どもたちや意思表示が困難な人たちはどうやったら拒否できるのでしょうか。
    家族が子どもの思いを推し量ればよいといいますが、本人の思いと家族の思いが
    一致するとは限りません。何より、子どもの命は、本人のものであって、
    家族のものではありません。現行法通り「臓器移植に限り、脳死を人の死」とする
    A案の修正案の提出も取沙汰されていますが、子どもや意思表示が困難な人たちが
    拒否できないという点では、A案と変わりません。
    もっともっと、審議が必要な法案がいともたやすく、しかも衆議院ではいねむりをしていたり、笑いながらの投票でした。こんな人たちに命の事は任せたくないし、国の動向が図れるのかと怒り心頭です。どうかもっと時間をかけた審議をお願いします。
    A案ないしD案でなければ「臓器不足の解消」はできないと言われてきた。また多くのマスメディアもそう伝えてきた。だがA案やD案が選ばれても、脳死患者が増えないなら「臓器不足の解消」は難しい。脳死患者の多くは交通事故の被害者や、いわゆる脳卒中の患者である。それゆえ交通事故が減るほどに、また救命救急医療が再建・整備されるほどに、脳死患者も減ってゆくと予想される。
     実際「移植先進国」ベルギーでは10年前、交通事故対策が奏功した結果、かえってドナーが減少し、犯罪被害者からの利用可能な臓器の摘出まで提案されるに至った。今も年間5千人を超える交通事故死者数の減少、今や「崩壊寸前」とまで言われる救命救急医療の再建・整備は、私たちの誰もが望むことだろうし、国・政府の重要な責務のはずである。国・政府がその責務を果たせば、脳死患者も減らざるをえないというこの根本的矛盾を、国会議員やマスメディアはどこまで真剣に考えたのか。
     この矛盾はまた、「日本人は冷たい」からドナーが少ないのではないことも示唆する。例えば米国の場合、交通事故死者数は年間4万人前後で、しかも皆保険ではないために、富裕層以外は徹底した救命救急医療を受けられないとも指摘される。銃による死者も夥しい(おびただしい)。すると日本でドナーが少ないのは、むしろ米国ほど危険な社会でないからだと言えよう。そしてその米国でさえ、「臓器不足の解消」はできずにいる。
     ◆生の価値を決める
     だがこうした指摘にはたいてい、「では移植を待つ日本の子どもたちが死んでもいいのか」という問いが返される。しかし、それがどれほど善意に見えようおも、実は残酷極まりない問いであることは気づかれない。
     移植のための臓器とは、脳死状態になった別の子どもの臓器である。子どもの脳死判定は特に難しいとされるが、問題はそれだけではない。その子どもがいわゆる「長期脳死」の状態なら、人工呼吸器の助けを借りながらも心臓は脈打ち、息をし、肌には温もりがあり、汗もかけば排泄もし、体を動かしもすれば成長もする。親がそこに「命」を見出すのは当然のことだろう。しかるにA案もD案も、「親の承諾」で臓器の摘出を可能にするという。だがそれは、その子どもに麻酔や筋弛緩剤を打ち、メスで体を切り開き、脈打つ心臓を切り取ることであり、そして親に向かい、我が子がそうして最期を迎えるのを「承諾」するよう求めることにほかならない。
     にもかかわらず、ドナーが子どもであれ大人であれ、「もっと臓器を」という声は止まない。しかしそうなると、その声は実はこう語っているのに等しいだろう―脳死患者は「人格」がないのだから、もはや生きるには値しない。だからせめてその臓器を、まだ「人格」のある者のために提供するべきだ、と。そしてそうであるならば、法改定が目指しているのは、ありえない「臓器不足の解消」よりも、誰が生きるに値しないかを決めること、すなわち新たな「命の線引き」であることになる。
     ◆岐路に立つ社会
     一人一人の命の環が連なり、そうして社会が成り立っている。脳死患者の命はその中で最も弱い環の一つである。その環が今、断ち切られようとしている。最も弱い環であるために、他人事にも思われる。だが一度それを認めてしまえば、新たな「命の線引き」がやがて植物状態や末期医療の患者に、さらには精神障害者や認知症の人々にまで適用されるのを阻むものはなくなる。そしてその時には、愛する者がただ生きていること・生きていてくれることの有り難さを感じる心も、この社会から失われてゆくことになるのだろう。すでに健康保険証には臓器提供の意思を書く欄が設けられた。私たちの社会がどこへ向かいつつあるのか、見定めなければならない。
    以下は