参議院議員 山本博司
ごあいさつ
【「ASEAN地域3か国(インドネシア・ベトナム・シンガポール)訪問・交流」発達障害支援へ!全力】 ASEANと日本との友好50年を迎えた本年8月、公明党として山口代表を中心に公式に訪問団を結成、3か国を訪問されました。 その後、引き続き私自身、この9月にインドネシア・ベトナム・シンガポール3か国を訪問。交流を深めてまいりました。 参議院議長班として訪問のベトナムでは、山口代表も会われたトゥオン国家主席・フェ国家議長・マイ越日友好議員連盟会長らとの会談。 国会議事堂の議場や国家主席府など等見学し、議員間交流も。視察では外国人技能実習送出し機関のホアンロンCMS、ハノイ日本人学校等訪問。元留学生とも意見交換。またシンガポールでも国会議事堂を訪問し、シア国会議長、ジャシカ・タン副議長らと懇談。タン副議長はIBMシンガポール出身で共通の話題で盛り上がりました。 インドネシアでは、ジャカルタLSPR大学で開催された「発達障害支援の国際セミナー・ワークショップ」で講演。 講演テーマは「ASEAN加盟国と日本の発達障害に関する組織・ネットワーク間のパートナーシップの強化」です。 「発達障害の支援を考える議員連盟」の事務局長として、また知的障がい・自閉症の娘の父親として、お話ししました。 アセアン地域の人口70%以上占めるインドネシア(2.77億人)、フィリッピン(1,11億人)、ベトナム(0.98億人)における発達障害者の課題が顕在化しています。 ・インドネシア人口 2.77億人 発達障害者数 1800万人 ・フィリッピン人口 1.11億人 発達障害者数 720万人 ・ベトナム 人口 0.98億人 発達障害者数 640万人 特に親なき後の対応(働く、住む、健康)が共通の最優先事項だが、推進する人材が不足3か国以外も同様な課題があります。 日アセアン50周年を契機に関係を深化、日本の強みを活かした協力が大事です。その意味で「社会・文化」の分野でのアセアン地域の発達障害支援の必要性を改めて痛感しました。 今回「インドネシア発達障害ネットワーク(IDD net)」が発足となりました。3月の東京での「発達障害に関する日本・インドネシア円卓会議」の提言に沿って、円卓会議に参加した国会議員・政府高官を含むインドネシアの発達障害関係者が集い、今回の国際セミナー・ワークショップが開催。 LSPRプリタ大学総長らLSPR大学関係者、ファルハン国民議会議員ら、アンキー大統領補佐官、ダンテ国家障害者委員会委員長、自閉症協会、ERIA関係者、ASEAN事務局関係者、日本の国立のぞみの園、厚労省、発達障害者議連など等全ての皆様がつながり、一緒になって今回の発足となりました。その場面に立ち会わせていただき、心から感謝申し上げます。 日アセアン友好50周年の節目の年。本日をスタートに、日本とASEAN各国の発達障害支援が進むよう、全力で応援してまいります。 令和5年10月1日 参議院議員 山本博司 |
手記 ーひびきー のご紹介
こちらの手記-ひびき-は、私が参議院議員に当選したばかりの当時(2007年)、障害者支援団体の皆様が発刊されている雑誌に掲載を頂きました。 いつまでも政治家としての原点を忘れずに、これからも国政活動を続けて参ります。 こちらの文面を以下のテキストに書き起こしましたので、是非ごらんください。
平凡なことが辛せ ~障害の娘が教えてくれた使命の人生~
障害の娘との壮絶な介護の日々
私は今、政治家(参議院議員)です。障害の娘(潤子)がいたからこそ、この世界に入ることになりました。知的障害の娘のおかげで、今の自分があります。
長女の障害が分かったのは2歳の時でした。どうも普通の子と違い、言葉も遅いし、ハイハイも遅いので、医者に診てもらうと「重度の知的障害です。脳障害です。一生直りません」との宣告を受けました。大変ショックでした。涙がとめどもなくあふれ、断崖から突き落とされたような絶望感が襲いました。
それから夫婦で壮絶な介護、子育てが始まりました。多動で睡眠障害の自閉症の娘を連れ、リハビリなどに通いました。外出の際も手を握っておかないと、車道に飛びこみます。いっときも目が離せません。
当時、私はコンピューター会社(日本IBM) の営業の主任・課長の時でした。妻はまだ小さな長男と次男の面倒を朝から夜までずっと1人で見ていましたので、これ以上続けると倒れてしまいます。それで私は会社から帰ってから、朝方まで睡眠障害の娘の面倒を見ました。寝ないで会社に行ったことも何度もありました
温かな善意ある人たちとの交流
そんな大変な中、同じ障害のある子どもをもつ親の会の「たまごの会」や「手をつなぐ親の会」の方たちとの出会いがありました。
どのお母さまたちも明るく前向きで、元気な姿にびっくりしました。同じように大変な障害をもちながらがんばられている皆さまに触れ、勇気をいただきました。
また、妻は「手をつなぐ親の会」の先輩の皆さまに相談に乗っていただきました。娘のおかげで、たくさんの友人ができました。周りの温かな善意ある方々がおられての今があると、本当に感謝しております。
重度の娘はまだ一人では何もできませんが、今年二十歳の成人式をむかえました。何もしゃべらない娘から、私たち夫婦は多くのことを学びました。
―つは「平凡なことが幸せ」との実感でした。最初、食事も手づかみでしか食べられなかった娘が、薄紙をはがすように、訓練で自分一人で食事ができたときの喜び。当たり前のことが、平凡なことが本当に幸せだなと感じます。
昔は多動な子でしたので、迷惑をかけるため、家族でファミリーレストランさえ何年もいけませんでした。先日も潤子と妻の3人でレストランで食事ができた時、「本当に幸せだなあ」と実感しました。
「当たり前のことが幸せだと感じられる感性」を娘から学びました。
二つ目は「自分を低くすること」を教えてくれました。ノーベル文学賞を受賞したパール・バック女史は障害の娘さんから「自分を低くすること」を学んだといいます。私も傲慢な自分の殻を一つ一つ、障害の娘を通じて、破ってもらったように思います。謙虚さ、感謝の心が大切なことだと教えられました。
政治の道・使命の道へ
一昨年、公明党から推薦を受け、29年勤めた日本IBMを辞めて参議院選挙に立候補し、当選させていただきました。立候補を決意したのは、20年近く障害者の皆さまとの交流を通じて、法の狭間でご苦労されている方々を見て、政治の光の当たらない方がいかに多いかを痛感していたからです。少しでも貢献できないかとの思いでした。
今、希望していた厚生労働委員会に所属しています。障害者の方の就労支援の充実など通算7回の質問を通じて、少しでも多くの課題の改善をと取り組んでいます。また全国150カ所の障害者施設や作業所などを回りました。「手をつなぐ親の会」の皆さまとも懇談させていただき、多くの課題や要望をお聞きしました。
「障害者自立支援法の抜本的見直しの与党プロジェクトチーム(PT)」の一員としても、親亡き後の本当に心配のない社会(ユニバーサル社会)を目指して、障害者施策の充実を進めたいと思います。
振り返ると、潤子を軸にわが家は回ってきました。泣き、笑いの中にいつも太陽の娘がいます。笑頻満載の娘から、勇気のエネルギーをもらいました。
また、愚痴を言わず、介護し抜いた明るい妻にも頭が上がりません。長男・次男も私のいない時に妻を支え、娘の面倒を見てきました。
私自身、娘がいなければこの職業に就くこともなかったと思います。これからも障害をもった方々とそのご家族の側に立ち、誠実にがんばってまいります。