一般社団法人参議院協会が発行している定期刊行誌「参風」の第195にて、山本博司前参議院議員が、「会員登壇」で取り上げられました。
聞き手は、山本博司の大先輩でもある、渡辺孝男前参議院議員です。
約20ページ以上に渉り掲載をしていた頂きました。
こちらの内容は、出版社様のご厚意によりpdfファイルを頂きましたので、こちらでも山本博司「会員登壇」をご覧頂けるようしました。
以下のリンクから御覧下さい。
★「参風」の第195号 会員登壇「話し手:山本博司×聞き手:渡辺孝男」★
なお、内容は以下に全文テキストで公開をしております。
会員登壇
きき手 渡辺孝男
山本博司・大いに語る
◆渡辺(聞き手)
山本先生、お久しぶりです。お忙しい中おいでいただき、本当にありがとうございます。今日、渡辺が本誌「会員登壇」のお相手をさせていただきます。よろしくお願いいたします。
●山本(話し手)
こちらこそよろしくお願いいたします。
◆渡辺(聞き手)
まず、これは恒例になっておりますが、先生の生い立ちからお聞かせいただければと思います。私は、地図とかを見ているだけの話で、愛媛県の八幡浜市のことをよく知らないので、教えていただければ幸いです。
●山本(話し手)
愛媛県は東予、中予、南予と3つの地域方面がありますが、八幡浜市は愛媛県の南の方、九州に近く県の中でも過疎地域の多い場所が南予地域と言われております。
愛媛の中では、新居浜市とか今治市などの工業地帯が東予で、中予が県庁所在地・松山市。南予の八幡浜市はまさしく九州へフェリーが出ている、佐田岬半島の付け根のところで、自然と、人情豊かな素晴らしい所で生まれ育ちました。
◆渡辺(聞き手)
地図を見ると、みんなみかん畑ですね。
●山本(話し手)
みんなみかん畑。これ、段々畑といいまして、山の急斜面を階段状に切り拓いた畑にして、そこにみかんの木を植えていく伝統的な栽培方法です。空からの直射日光・海からの反射光・石垣からの照り返しの3つの太陽の恵みで美味しいみかんが育ちます。
代々私たちは、温州みかんの日本一の産地というふうに言っていますけども、まさしく向灘の「日の丸みかん」や「真穴みかん」「川上みかん」とか、それぞれ地域ごとに温州みかん・柑橘を作っているんです。
◆渡辺(聞き手)
私は茨城生まれですけれども、東京、関東、それから東北、北海道という、どちらかというと北側には御縁があるんですがね。
●山本(話し手)
海外のインバウンドのお客様も、どうしても四国までは来ない。四国でも、香川県のように瀬戸内国際芸術祭などイベントで多くの人が来られていますけども、愛媛県南予地域というのはまだまだこれからですね。
今、八幡浜市の人口は3万人弱ですか、人口がどんどん減少しています。八幡浜市はまた漁業の町でもありました。
◆渡辺(聞き手)
そのような話ですね。前はトロール漁業の基地となっていたんですね。
●山本(話し手)
2隻の漁船で網を曳いて魚を獲る漁法で、トロール漁船として、昔は4隻ぐらいのたくさんの船が八幡浜港から漁場に向かっていっていたんですけども、今はもう1つの会社2隻しかやっていません。
◆渡辺(聞き手)
残っていない。そうですか、残念ですね。
●山本(話し手)
しかし、今でも水産業は八幡浜の産業の大きな1つです。宇和海の豊かな海産物が集まる西日本有数の水揚げ量を誇る最先端の魚市場と観光施設「みなとオアシス八幡浜みなっと」などで新たな港町として発展しています。「魚とみかんの町・八幡浜」。港町ですよね。
ですから、森進一の「港町ブルース」の歌詞に「高知、高松、八幡浜」として、四国の港町として紹介をされています。
◆渡辺(聞き手)
それは知らなかった。
●山本(話し手)
そのような素晴らしい故郷・八幡浜市で生まれ育ちました。
◆渡辺(聞き手)
御両親は御健在なんですか。
●山本(話し手)
2人とも95歳で亡くなりましたけども、父は、海の仕事といいますか、海事関係の仕事です。造船と内航船の経営をずっとやっていまして、兄は今それを受け継いで外航船を経営しています。
◆渡辺(聞き手)
そうなんですか。
●山本(話し手)
現在いとこが故郷で造船会社を経営しています。
父は八幡浜市で中小企業の経営者として、ロータリークラブにも最初からチャーターメンバーとして、50年以上、地域の発展のために尽くしてきました。
商工会議所の会頭や県の公安委員長など親族で地域・社会貢献に尽力してきたのが山本家でした。
◆渡辺(聞き手)
じゃ、経済界の方で貢献されたということですね。
●山本(話し手)
そういう意味では、両親それから4人の男ばかりの兄弟、親戚も含めて、恵まれた環境で育ったということですね。感謝しています。
◆渡辺(聞き手)
そうですか。中学、高校のころには卓球で頑張っておられたんですね。
●山本(話し手)
高校と卓球をやりまして、高校のときは四国大会ベスト8になったぐらい、ともかく卓球に打ち込んでいましたね。ほとんど毎日、近くの四国山を走ったり、あと腕立て伏せとか、基礎体力を作るために地道な運動をやり続けていました。正月ぐらいは休みましたが、あとはずっと練習に取り組みました。今、健康で議員時代も1日も休む事なく働ける事が出来たのも、その時の運動などの成果だと思います。
また今でも卓球部の後輩、先輩、同級生たちが集まる機会がありますけども、青春時代の良き思い出です。
◆渡辺(聞き手)
そうですか。御家族は今3人のお子様がいらっしゃるということで、後でお話が出てくると思うんですけども、お嬢様がちょっと障害があって御苦労されたということですが、それは後にしまして、お父様とか親族関係の方々は、経済関係で頑張っておられるということですが、慶応大学の方にお進みになったというのは、やはり、経済関係に進むということで、優秀な私学をお選びになったということですか。
●山本(話し手)
いやいや、父が日本の中心・東京で学んで東京の空気を吸うべきだということを強く言っていましたので、であれば東京の大学をということで慶應大学を志望して、それで勉強して受かったということなんですね。
◆渡辺(聞き手)
学部が法学部政治学科、これはどういう経緯でしょうか。
●山本(話し手)
それは、政治家になろうというのは一切なくて、大学で学んでいく視点として、私学としての自由な校風や経済界など各分野で活躍される方々が多い大学へ。
代々、おやじもそうですし、祖父もおじさん達もそうですが、経済界で活躍をしていました、松下幸之助氏を尊敬していましたので。事業家や外交官など社会で雄飛し、活躍したいという思いもあり、結果として慶應大学法学部政治学科に行きました。でも、入ってみて、すごくそれはよかったと思いました。
◆渡辺(聞き手)
そうですか。
●山本(話し手)
そこに集ってくれる同級生達のいろんな人のネットワークというのがやっぱりすばらしい。
◆渡辺(聞き手)
そうですよね。僕らの同級生でも慶應で学んでいる方はいらっしゃいますけども、やっぱりそれなりに経済的にも恵まれた方が多くいますよね。
●山本(話し手)
慶應同級生が5300人ぐらいいるんですね。118三田会は昭和52年卒業組の会で昭和48年に入り、52年に卒業した同窓会です。
その会は毎年いろんな行事をやっていて、最後の行事は、卒業50年のときに慶應大学入学式に皆さん招待していただくんです。
卒業10年毎に連合三田会の運営登番年度として担当します。いろいろ節目節目に皆さんが集まります。私も118三田会の役員のメンバーで、年に何回か集まります。その中心者が大林組のオーナーの大林剛郎君とか榮太樓本舗の会長の細田眞君とか、慶應大学の人脈、ともかく経済界などに強いネットワークがありますから。そういう意味では、同級生のつながりというはすごく有り難いですね。
◆渡辺(聞き手)
みんな日本の経済界で活躍されている。我々の医学の方ですと、慶應大学も医学部がありますけどね。
●山本(話し手)
慶應大学の医学部の人たちも多くいらっしゃいます。慶應大学病院の前病院長が愛媛県出身の松本守雄さん、私の同期に社会医療法人河北医療財団の河北博文理事長など様々な分野で慶應に御縁のある方たちが全国に散らばっていらっしゃって、人脈の広がり、ネットワークがいろんな意味で有り難いなと思っていましたね。
慶應大学に入ったということで、初めて深く福沢諭吉先生の事を学びました。また多くの素晴らしい教授陣から様々の事を教えていただきました。また三田祭など大学内のサークル活動も含めて、私にとっても貴重な学生時代でした。
◆渡辺(聞き手)
しかし、ものすごいですね。1学年で5000名以上ですか。
●山本(話し手)
ええ、1学年。学部は、医学部もありますけども、経済学部、商学部、工学部等あります。
◆渡辺(聞き手)
すごいネットワークですね。
●山本(話し手)
やっぱり、三田会というのはすごいなと思いますね。今、目黒三田会、香川の讃岐三田会、愛媛三田会に所属していますが、全国の地域三田会。また業種三田会など、様々な分野で交流を進めていくような会が慶応の素晴らしいネットワークです。
それは、国会議員になっても、衆参国会議員、他党の方も含めて、毎年1回慶應大学の塾長・学部長の方たちとの交流会があります。それは福沢諭吉先生以来の伝統らしくて、今、塾出身の国会議員が70名ぐらいいらっしゃるんですかね。
◆渡辺(聞き手)
そうですか。やっぱり大したものですね。特に伝えておきたい慶應大学でのエピソードというのはありますか。
●山本(話し手)
はい。自分の人生の転機になる哲学・指針を学生時代に学びました。
学生寮に入りました。愛媛県の南予地域、八幡浜市や宇和島市とか南予地域の人たちが集う学生寮、南豫明倫館で4年間お世話になりました。
そこは、他大学で出身地域の違う学生たちとの交流もありました。いろんな考え方を持った学生の方々との交流を通じ、「これから自分らしくどう生きるのか?」など等。自分の生きるバックボーンになる仏法哲学・師匠に巡り合えた事が最大の幸運でした。この事がこれからの人生の大きな転機になりましたね。
◆渡辺(聞き手)
やはり、すごい才能を持っている同級生の方々も多いでしょうからね。
●山本(話し手)
その中で自分がどう生きていくべきか、どういう人生を歩んでいったらいいかということを、様々な個性ある学生の集団生活の中で学びました。初めて四国の田舎から出てきて、いろんな方と接する中で、自分探しから、自分の生き方みたいなものを模索する事が出来ました。
◆渡辺(聞き手)
なるほど。ところで、日本アイ・ビー・エムの会社の方にお入りになったというのは、どういういきさつでしょうか。
●山本(話し手)
何かこの企業に進みたいという個別の企業は余りなかったんですが、ただアイ・ビー・エムという会社が、当時1977年、昭和52年ですから、まだコンピューターというのがそんなにすごく身近ではなかったんですけども、やっぱりコンピューターというとIBMは世界一のIT企業でしたので、世界一の企業にチャレンジしてみてはどうかとの友達の話もあって受けてみました。
◆渡辺(聞き手)
慶應からも同期生というか、同じ学年の方も結構入ってこられたんですか。
●山本(話し手)
ええ、慶應からのメンバーも入っていました。
ただ、昭和52年当時は、オイルショックがあって、採用人数を少なくしたんですね。それでも当時150名とか200名とか、そういう人数の入社でしたが、その後、4、5年たったら1000人規模で、私の弟が10年後に入社したんですが、採用は2000人採りましたね。
◆渡辺(聞き手)
それだけ発展したんですね。
●山本(話し手)
それだけ物凄い勢いでIT企業が発展していった、その前兆ということですね。
◆渡辺(聞き手)
会社の方でもいろんな賞をいただいたと聞いておりますが。
●山本(話し手)
自分は割と負けず嫌いなものですから、目標に対して必ずそれを達成する事に挑戦していました。
当時、コンピューターは1億円以上の価格がします。それを法人に対して、例えば印刷業や建設業など業種に特化し、その企業にあったシステムを提案して、御社のこういう課題がありますね、具体的にこのコンピューターシステムを活用することでこのように変わります、効果はこうありますということを具体的に現場に行ってその内容を確認しながら、社長に提案をしていく、そしてお金を支払っていただくという、そういう一連のシステム提案のプロセスを自分なりに勉強し、現場に行って問題解決をしていきました。
毎年の売上目標を必ず達成していました。100%達成クラブ「HPC」というのがありまして、毎年の目標を達成して表彰される事が12回ずっとありました。
本当にやりがいのある29年間、法人営業とそれから新入社員の研修、営業・エンジニアの研修を担当させていただきました。自分が今までやってきた営業の様々な経験を新入社員の方にしっかりと1年半の研修をやるんですね。
◆渡辺(聞き手)
1年半は長いですね。
●山本(話し手)
大学院に行くようなもので、最後の期間は、合宿の訓練で1週間ぐらいホテルでの合宿です。
ある企業のモデルのケースを与えて、提案をして社長を説得するというプロセスを体験していただくという研修です。1500人ぐらいの若手を研修で教えていました。
◆渡辺(聞き手)
どこかのホテルを借りてやられるんですか。
●山本(話し手)
そうですね。成田・愛知・静岡・滋賀・大阪・広島・福岡・長崎県など全国の様々なホテルを予約して、そこで全国の地域の方たちをお呼びして研修していました。
◆渡辺(聞き手)
後で考えると長いですね。
●山本(話し手)
29年のIBM時代。法人営業等の経験を活かして若い方々の営業、エンジニアの人材育成に携われて、大変生きがいを感じていました。
なおかつ、地元では西柿の木坂町会の副会長もやっていました。あと障がいのある長女が生まれましたので、療育などやりながら営業の主任、課長時代、障がいの娘を妻と介護しながら貴重な体験もさせていただきました。
◆渡辺(聞き手)
お嬢さんのことはいろいろ書かれておられますけども、なかなか大変な介護をされたという、これは会社とは別な体験になるんでしょうが、それも政治家になってからは大きなテーマになって御活躍されたということですね。
●山本(話し手)
その障害の娘がいたからこそ、今の私があります。潤子と言いますけども、今は38歳になります。2歳のときにその障害が分かりました。「重度の知的障がい。自閉症です。一生治りません」というお医者さんの宣告を受けました。
当時はまだ福祉制度も何もない時代です。娘を預ける場所もなく、全部家族が丸抱えで見ないといけない時代です。
知的障がいの親の全国組織「手をつなぐ育成会」が目黒にもありまして、妻も会の先輩から温かなアドバイスを受け、激励されました。私も妻と一緒に子どもを療育しながら、いろいろな場所に行きました。
多動で強度行動障がいの子でしたので、外に出て行くときは手をしっかり握っていないと、手を離しますと車道に飛び込んでいくような危ない子でした。家の中も全部鍵をしないといけないし、口に入れて危ないものがあるといけませんし、寝ない子でしたので、絶えず気を付けながら、妻は3人の子育てをしながらずっと介護しているわけです。
日本アイ・ビー・エムの営業課長の時代でしたけれども、仕事が終わって戻ってくると、私がバトンタッチをして、妻に寝てもらって朝方まで睡眠障害の娘を見るということが日常茶飯事のようでありましたね。
中には、制度のはざまで大変な方々、実際障がいのお子さんと心中された方や離婚される方とか、周りにもいましたね。
◆渡辺(聞き手)
やっぱり、途中で目を離すことができない、応援もなかなか家族以外には得られないという、実情は大変ですよね。そういう中で日本アイ・ビー・エムで大変な仕事をしながら、家で介護をしながらということになると、本当に自分が倒れたら、あるいは奥さんが倒れたらどうなるのかということだものね。
●山本(話し手)
それは絶えず心配はありましたね。
ただ、会社の方にも、そういう障がいがある娘がいるということで、例えば転勤等に関しても配慮をいただいて、地方の転勤は1度もありませんでした。
あと、何かのときにはすぐ帰らないといけないということも上司も分かっていただいて、仕事をやらせていただきました。
大変いい職場だと思いましたね。まだまだ国として制度がない時代でしたので。
◆渡辺(聞き手)
日本アイ・ビー・エムという優秀な会社なので、そういう配慮をいただいたということですよね。政治家になるというようなお話というのは、どういう段階でそういうお話が来て決意をされたんですか。そのままお仕事をされても十分いろんなことができたんでしょうけれども、どうしてこういう特殊な世界にお入りになる決意をされたんですか。
●山本(話し手)
私も政治家になるなんて一切思っていません、応援する側ではありましたが。
当時、慶應大学の先輩で国会議員の浜四津敏子さんとか赤松正雄先輩とかがいらっしゃいましたから、ずっと応援をしていました。そんな中、2006年当時公明党の神崎武法代表から参議院比例区の候補として立ってくれないかというお話をいただきました。
悩みましたけども、障がいの娘を抱えて、制度の狭間で大変な方々を見ていましたので、政治家、国会議員となってそうした大変な方々への恩返し、少しでもお役に立っていけるのであればということでお受けさせていただきました。
参院選を控え、候補として廻らないといけないので会社を早く辞めてもらいたいとの事でした。公明党当時の神崎代表が、私が会社に行って交渉してあげるからということで、当時、経済同友会の関係で、日本アイ・ビー・エム会長で、当時の経済同友会の中心者でもあった北城恪太郎会長に神崎さんに連絡を取っていただいて、日本アイ・ビー・エム本社に神崎さんに来ていただきました。当時の会長と社長、私の直属の上司の方に会っていただいて、「山本君を公明党にいただきたい、8月までで辞めさせていただきたい」とお願いされました。
当時、公明党の場合は1年前から候補として動くという事でした。それで中四国出身の候補者を探しているという事で、たまたま私が福祉の活動や四国の出身だからという事で選んでいただいたということです。
◆渡辺(聞き手)
なるほど。御家庭は東京の目黒にあるんですよね。そうすると、また奥様の方の負担が多少多くなりますね。
●山本(話し手)
妻の了解というか、理解等も得て、家族も含めて応援していただきました。
◆渡辺(聞き手)
拠点はそのときは松山の方ですか。
●山本(話し手)
いいえ。愛媛県松山には兄弟もいますし、八幡浜市には実家がありましたが、四国の公明党本部の拠点が香川県高松市だったものですから、そこに拠点を作ってほしいということで、それで単身でマンションを高松駅前に借りて、2006年から住むようになりました。
あと、中国5県と四国4県、9県を地域担当するということで、ちょうど1年掛けて9県を廻りながら、比例区「山本ひろし」を知っていただき・応援いただく事に全力をあげました。
◆渡辺(聞き手)
なかなか大変でしたね。
●山本(話し手)
当時は一番風が逆風でして、2007年参院選では、埼玉の高野博師さん・神奈川の松あきらさん・愛知の山本保さんが夫々落選。選挙区では東京と大阪しか通らない時代でした。比例区でも新人は私しか通らなかったです。
◆渡辺(聞き手)
そうですか。
●山本(話し手)
ですから、そういう大きな逆風のときでも当選をさせていただき、支持者の皆さん方も含め大変感謝で一杯です。
◆渡辺(聞き手)
いや、中国地域や四国地域の一部は新幹線とかがないから、なかなか移動が大変ですよね。
●山本(話し手)
大変広い地域です。でも、渡辺先生の東北、北海道と比べると、距離的にはまだ狭いです。ただ中国地域は初めてで全く私自身知らなかったですね。
◆渡辺(聞き手)
それぞれみんな特徴があるでしょうからね。
●山本(話し手)
ですから、そこで懸命に回りながらお願いをして、当選をすることができました。
◆渡辺(聞き手)
3期、18年やられるということは大変な活動ですよね。山本さんが議員になられて、これまでどういうところに一生懸命取り組んでこられたかというか、そういうエピソードがあればお話しいただければと思います。
●山本(話し手)
やはり、障害者の施策をやるために議員になった背景がありましたので、私は真っ先に厚生労働委員会に所属させていただきました。当時渡辺さんが理事で私が委員の時代です。当時参議院は少数与党でしたから、なかなか国会運営が大変な時期でした。
さらに渡辺さんが副大臣になられたので、厚労委員会は私1人で全ての国会質問をやりました。ただその中で国会は立法府ですので、「障害者の施策の法律を作ろう」と力を入れました。障害者基本法から障害者虐待防止法、障害者優先調達推進法等、2007年当時、参議院は少数与党だったものですから、私たちが用意した障害者自立支援法の改正だとか障害者優先調達推進法とか、法律が全く通らなかった時代です。
そして2009年政権交代で公明党は野党になりましたが、やっぱり法律は必要だということで当時の与党民主党とやり取りをしました。2010年障害者自立支援法の改正から始まり、2011年障害者基本法、2012年障害者優先調達推進法など成立できました。
例えば障害者優先調達推進法は障害者の工賃、これが本当に福祉的就労ということで工賃が安い。それを国や地方に優先的に仕事を回していただくという法律です。この法律成立によって工賃が上がりました。現在全国平均の工賃は月約2万4千円と倍になりました。
また2010年児童福祉法改正のときに、児童に対しては今までは全く支援がなかったのですが、法改正によって、放課後デイサービスと児童発達支援事業が創設され、今60万人の障害児童が通所で預かれるようになりました。
あと、2016年は発達障害者支援法の改正、2018年には障害者文化芸術推進法。健常者と同じように文化芸術を楽しむことができ、活躍する場を作るという法律です。2022年には医療的ケア児支援法。制度の中でも大変な方々の法律を議員立法により、超党派議連の幹事長や事務局長をやりながら、法律を作らせていただきました。
任期の最後の年・2025年の通常国会の最後には手話施策推進法も成立。全日本ろうあ連盟の方々が長年強く要望されていた法律でした。
3期18年間で29本の法律を成立することができました。それによって2006年当時の障害福祉予算。国・地方合わせての予算が、約5400億円から今では4.2兆円という、7倍近い予算へ拡充することができました。
利用者も同じように49万人から159万人に。さらに障害福祉に従事する方々も58万人から171万人へ。また障害者雇用も30万人から70万人と大幅に拡充されました。企業の中にも障害者を雇っていただくという、大きく環境が変わりました。私も実感としても、大変良かったことだと思っています。
◆渡辺(聞き手)
いろんな障害者団体の方々と私どもも接する機会があるけれども、課題が深刻なものから大変な労力を要するものがあって、なかなか法改正までたどり着くのが難しいものが多かったのですが、そういう意味では本当に根気強くやられましたね。
●山本(話し手)
10年以上掛かった法律もありました。でも、障害当事者や御家族の方々の声を代弁していくという意味では、やっぱり公明党が一番現場の身近な声を聞いておられます。全国の地方議員との連携で国会で取り上げながら進め、その法律を作るには自民党、与党の協力と共に、他党の議員の方の理解・ご協力など、根回しも含めた地道な作業が掛かりますから。
◆渡辺(聞き手)
本当にいろんな施設、すごい数を訪問されて現場をよく見ていらっしゃったということで、その分そのような御尽力で法律ができて、実績、施策が進むということになり、やっぱり障害者の御家族、団体の方々も大変喜ばれたと思いますね。まだまだ課題は尽きないけれども、そういう大きな成功体験というか、うまくいった体験があれば、またそれを続けて支援してくださる議員も当然ながら出てくるわけで、そういう道筋を作るというところが一番大変だったんじゃないかなと思いますね。
●山本(話し手)
そうですね。多くの法整備により障害の当事者・ご家族・支援者の方々が大変喜んで、感謝頂きました。ちょうど2025年は聴覚障害の方のデフリンピックの年で、全日本ろうあ連盟や聴覚障害の方たちの思いが実現。日本で初めての開催です。フランスが出発で100年目ですか、日本に80か国・地域3000名ぐらいのアスリートの方々、聴覚、耳の聞こえづらい方々が世界各国から来られました。その中、意思疎通を図る障害者の情報アクセシビリティー支援の法整備や、手話の施策の法律もできた事で、多くの国民の方々が、デフスポーツについて啓発をされ、理解され、応援をしていただいたと思います。
◆渡辺(聞き手)
そうですよね。聴覚の障害がある人はいろんな意味で、ヘレンケラーさんじゃないけれども、いろんなことを学ぶにしても、大変な労力を要して勉強されるわけですよね。あと、新型ワクチンがありますよね。これも大変だったですよね。
●山本(話し手)
私自身、政府の方では、2013年に財務大臣政務官になりまして、財政ということを様々 experience させていただきました。休眠口座支援にも携わりました。
やはり一番何といっても2020年、2022年と厚生労働副大臣、それからワクチン接種推進担当の副大臣に就任。コロナの一番大変な時の副大臣を経験させていただきました。コロナで亡くなる方々をいかに少なくして対応していくのか。
全国一斉に初めてワクチン接種を推進するという事で、厚生労働省で仕事を終えた後、河野大臣がワクチン接種の担当でしたから、夕方から内閣府の方に行って、2つの省庁を行き来しながら、昼夜を問わず働きました。
当時の菅総理から「1日100万回接種をするように」と言われていました。私は河野大臣と「困ったな、どうしていったらいいんだろう」と試行錯誤しながら集団接種以外に職場環境での接種など等。様々なチャレンジをしながら進めました。また離島のような地域をどうするのかという事も話題になりました。
私は公明党の離島対策本部長を長年勤め、離島を回っていましたので、離島の方々は人数も少ないから、優先順位じゃなくて一度に全ての島民の接種をやっていこうなど等。当時の様々な現場の声をそのまま吸い上げながら、迅速な対応をしていきました。
2020年、2021年、田村憲久厚労大臣と後藤茂之大臣、内閣府ワクチン接種担当の河野太郎大臣と堀内詔子大臣と2代にわたってその下でやらせていただいたんですけども、すごく緊張しながら、また、本当に命を守るということがどれほど大変なのかということを経験させていただきました。
◆渡辺(聞き手)
医療の現場においても、いかに早くワクチンをスムーズにやれるかということで、新型コロナ関係の予算もいろいろ付けていただいた。
●山本(話し手)
最初接種費用が安くてお医者さんの接種のなり手がないんです。ともかく単価を上げないといけないとか、あと看護師の方以外にもワクチンを接種する方々をどう増やすかとかですね。
◆渡辺(聞き手)
そうですよね。新型コロナの感染が広まったときはどうなることだろうかと、本当に心配しましたね。
●山本(話し手)
コロナ流行初期は非常に毒性が強く、高齢者や基礎疾患のある方を中心に多くの重症者・死亡者が出ました。
◆渡辺(聞き手)
ゆっくりやっているというわけにいかない。やっぱり、相手のウイルスが強い毒性を持っていましたからね。本当にそういう分野でも御苦労されたんですね。
●山本(話し手)
その中でも、厚労副大臣のときにプロジェクトを2つやったんですね。1つは、私はヤングケアラーについて、何とかしていきたいと思っていました。当時所管ではなかったんですよ。所管は三原じゅん子副大臣だったんです、でも、この問題をやらせてほしいということで田村大臣に了解をいただきました。
障害を持っていらっしゃる方々を含めて、兄弟の大変さとか、あと精神障害のお母さんの下での、子供の不登校等の大変さについて身近に聞いていましたので、ヤングケアラー支援を取り上げたいとプロジェクトチームをつくりました。文科省の副大臣と共催。有識者や現場等の方の声を聞かせていただき、急ピッチでその提言をまとめさせていただきました。それが今の政府のヤングケアラー支援の大きなきっかけになりました。
新型コロナの大変な状況がありましたが、厚労副大臣として政府に入った以上、自分でしかできない仕事をとの思いから、ヤングケアラー支援と共に障害者情報コミュニケーション支援のPTを立ち上げさせていただきました。障害者情報コミュニケーションのPTでは、総務副大臣と共に実施し、ヒアリングを重ね、政策提言をまとめさせていただきました。この後2023年成立した「障害者情報アクセシビリティ・コミュニケーション施策推進法」に繋げる事ができました。
◆渡辺(聞き手)
やっぱり障害者対策、いろんな課題が残っていた中で山本さんの個人的な体験の実感があって、何とかしなきゃいけないという強い思いでそういう役目が回ってきた、あるいは、そういうお仕事を自ら選んで推進をしてきたというのは本当に言うはやすく実行するのは難しい中で頑張られたということですよね。さっき離島のことがありましたけども、離島の方もかなり回られたということですが。
●山本(話し手)
瀬戸内海には島々がたくさんあります。実は、離島が大変だなと思ったのは、香川県に井島(岡山県側は石島と呼ぶ)という島がありまして、2011年山火事になったんです。ところが、香川県直島町側が9割で、岡山県玉野市が1割、いわゆる1つの島が2つの県にまたがっている島です。
香川県側の山林から火が出て、ずっと延焼して、玉野市に103名の方が住んでいる所が大変だというので、私は中四国が地域担当でしたから、じゃ現場にすぐ行こうと思ったら、定期船がありません。定期船がないので、漁業者が出す船で現場調査に行った事がありました。
そのときに初めて身近な瀬戸内海のすぐ近くにもかかわらず、島民の生活の足である定期船がない現実。小規模離島は様々な課題を抱え、大変だなと思い、改めて離島振興の大切さを痛感しました。(その後、2015年石島航路として定期航路として定期船が運航するようになりました。)
故郷八幡浜に大島という島があります。私も船で行って、そこは同じように医療がない。介護なんかもない。さらには、障害支援ということ自体も全くそこまで支援は行っていない。そういう多くの離島の大変さというのを身近に私も感じて、公明党の離島振興対策本部に入らせていただきました。事務局長を務め、全国の離島を回りました。
鹿児島の十島村は、鹿児島市から週3回しか船が出ていない。13時間かかります。
十島村というのは7つの島があって、人口が500名ぐらい。1つの島が100名弱くらいですか、公明党の離島振興対策のメンバーと回って、その声を離島振興ビジョンにまとめて発表しました。
当時、10年に1回離島振興法という、247の島々の法律が昭和28年から議員立法としてあります。見直しのために、自分が公明党の離島振興対策本部の事務局長として全国の離島を回る中で、やっぱり法改正の必要性というものを強く感じました。
当時の離島振興の所管担当大臣には厚労大臣とか文科大臣とか経産大臣が入っていないんです。ですから、離島の医療はといったら、責任は自治体でしかなかった時代なんんですね。
主務大臣を現在の7大臣に増やし、抜本的な離島振興法改正にも関与しました。有人離島が417ぐらいと言われていますが、公明党の離島振興対策本部の事務局長・本部長として115の離島を廻りました。
その中でも特に「有人国境離島」という特に安全保障上大変大事な71の島々になりますが。よりもっと多くの支援が必要という事で「有人国境離島振興法」を2016年に作らせていただきました。2026年には、その改正が近づいています。
離島の置かれている大変な状況、障害の方々と同じような制度のはざまのところで、国が法律を作ったりして予算や施策を講じない限り、大変な状況というのは変わらないというところから、離島にずっとかかわってきたということがあります。
また、過疎地域支援においても、公明党の過疎対策本部長もさせていただき、過疎法も10年に1回法改正ということがありましたので、それにも同じようにかかわらせていただきました。過疎債という自由に使える5000数百億のお金を拡充していくとか、離島とか過疎地とかの方々の声を生かしていくという事を自分の使命であるとの思いで、やらせていただきました。
また、特に中国、四国は過疎地域が多い地域です。島根県とか高知もそうですけども、すべての市町村が過疎対象地域ですね。北海道も東北もそうだと思うんです。
◆渡辺(聞き手)
やっぱり、そういう実体験というか、地方の事情をよく分かっている議員じゃないとなかなか情熱を持って法改正とかをするということは大変難しいことなので、本当にいろいろ労力が掛かるお仕事を山本議員はされてきたんですね。
●山本(話し手)
でも、そういう離島や過疎地を回っていくということは私にとっても貴重な体験になっています。本当にその地域で懸命に頑張られている方々がいらっしゃるということは素晴らしいと思いましたね。
◆渡辺(聞き手)
そうですね。今、代表的なお話はいろいろ聞かせていただきましたが、そのほか山本さんがこういうことを議員としてやってきて良かったというようなことはございますか。
●山本(話し手)
参議院での委員会の役職歴というのはありますけども、私も参議院の委員長を、2007年には消費者問題特別委員長、2016年には総務委員長、それから2018年には災害対策特別委員長と、いろんな委員長も経験させていただきました。
また、公明党の役職も、2017年と2021年に国対委員長をさせていただきまして、大変な政治状況の中での国会対策等のやり取りも経験させていただきました。
また29年間のIT企業経験がありましたので、公明党の中でもデジタル社会推進本部、IT推進の本部長も担いました。ITの経験を生かす形で議員活動においても活動させていただきました。
◆渡辺(聞き手)
本当に多方面で御活躍されて、特に今まで障害者対策とか離島の関係とかをものすごく進められたというのは、本当にすばらしいことだと思います。今はもう参議院議員を退職されて、今後はどんな形で、政治とのかかわりとはまた別に、御自身の人生の課題として、どういうことをしていきたいと思っていらっしゃるんですか。
●山本(話し手)
私は今、第3の人生を送っています。第1の人生は、日本アイ・ビー・エムに29年間勤めた時代、第2の人生は、国会議員として3期18年間の時代、そして今からは第3の人生です。
第3の人生は、やっぱり自分自身が議員時代も進めてきた中心の施策。障害者福祉の分野はライフワークとして続けていきたいと思います。また、ITを使った施策についても、29年間のIT経験を生かした形で、社会課題に解決ができるよう進めてまいります。
また、亡くなった父や兄たち海事関係の仕事に従事しています。海洋国家日本における海事に関する支援についてもチャレンジしてまいります。
今でも毎週1回国会に通っています。理由の1つは、今までの超党派の議連の中での深いかかわりがあります。例えば高次脳機能障害者支援の超党派の議連の幹事長をずっとしており、OBになっても法律を通すまではやるということで、ちょうど2025年12月16日臨時国会にて「高次脳機能障害者支援法」という法律を全会一致で成立させていただきました。
◆渡辺(聞き手)
有り難いことですね。
●山本(話し手)
これは、日本高次脳機能障害友の会が全国にあります。当事者・家族の会です。推計23万人、生きづらさを抱えていらっしゃる方がたくさんおられます。記憶障害・遂行障害・社会的行動障害など、大変な思いをされておられる切実な声をずっと聞いていました。公明党として2018年にプロジェクトチームをつくらせていただきました。
私が座長で、法律を作っていこうということで、自民党の方との勉強会から、2025年超党派の議員連盟ができて、衛藤晟一会長の下で私が幹事長を拝命。臨時国会においても議連の会合とか、それから根回しで国会議員の方のところに友の会の方と一緒に行くとか、最後は法案の成立の瞬間までずっと見届けさせていただきました。
まあ、OBだからできるんだろうと思いますけども、1つの法律にもかかわるということが大変大事だと思っています。高次脳機能障害だけでなくて、今、医療的ケア児者新法の改正にも深く関わっています。
2年前に「超党派医療的ケア児者支援議員連盟」を自民党の野田聖子衆議院議員が会長で、私が幹事長ということで議連を発足。私がOBになりましたので、顧問という立場で、公明党の里見隆治参議院議員に事務局長をやっていただいて、今、その法改正のための議連の総会と、その前のインナー会議という必要なメンバーだけで打ち合わせするという、それを毎週のようにやっています。
法案の骨子案を策定。2026年通常国会に提案、成立に向けて進めています。
それ以外にも、超党派の「発達障害の支援を考える議連」顧問の立場で、「発達障害支援法」改正に向けての着手に取組み始めました。議員OBになっても、引き続き、お声をかけていただき、大変有り難いことだと思います。
◆渡辺(聞き手)
今まで現職のときにやってこられて、また、いろんな課題のある点を一番よく分かっていらっしゃるので、その後もかかわりながら改善というか、されていらっしゃる。
●山本(話し手)
あとは、公明党の若い方にバトンタッチをしていく事です。
医療的ケア支援は里見隆治先生、高次脳機能障害は中川康洋先生、発達障害支援は三浦信祐先生に。あと私の後継の参議院議員の原田大二郎さんには、私の中四国地域の後任としてなど等。次世代の若い方々に引継ぎをしたいなと思っています。
◆渡辺(聞き手)
いろんな多方面の課題を解決しながら次の世代に引き継ぐということを頑張っておられて、本当に素晴らしいと思います。これだけ激しい活動をされていて、健康の問題はどうですか。
●山本(話し手)
お蔭様で健康面に不安はありません。食事など健康面では妻に大変感謝しています。
議員時代は、子どもたちを含めて、今まで家族との時間というのはなかなか取れなかったですから、それを大事にしたいと思います。私のライフワークの分野をやりながらも、大事なのは家族との関係をしっかり時間を掛けてやれるよう行いたいです。少しずつですが今、始めています。
◆渡辺(聞き手)
それは大変よかったと思いますけども、お嬢さんのことも含めて、これからも御家族のサービスというか家庭的なこと、なかなか議員活動していると、どうしてもそういうところができないこともあるので、今までやりたいなと思っていたところを今度は少しできるようになってよろしいですね。
●山本(話し手)
本当に支えてくれたのは妻はじめ家族ですから、家族にそうしたことをやっていくことができるのでうれしいですね。
◆渡辺(聞き手)
私の知らないこともいろいろ教えていただいて、特に障害者の関係はすごく進められたということで、大変すばらしい議員活動をされたなと、そのように思っております。今後も健康に留意されながら、御家族とともにお幸せな人生を歩みながら、また、社会のいろんな課題に挑戦していただければ有り難いなと思っております。
●山本(話し手)
そういう意味では、渡辺先生のように、公明党の大先輩がそうやって生き様を指し示していただいています。その後ろに付いていかせていただきたいと思います。高次脳機能障害支援もそうですし、脳脊髄液減少症の支援も渡辺先生が先導していただきました。
◆渡辺(聞き手)
きちんとやっていただいて、本当に有り難いと思っています。今後とも、御活躍を祈念申し上げたいと思います。今日はありがとうございました。
山本博司先生との対談


