八幡浜市文化会館(ゆめみかん)大ホールで開催された市民ミュージカル「二宮忠八物語~世界に誇る愛媛の偉人~」を鑑賞しました。(30日)

この市民ミュージカルは世界に誇る偉人「飛行機の父」二宮忠八翁の生誕150周年を記念して、その功績を称えるとともに、忠八翁の進取の気質を時代に引き継いでまらうことを願って行われました。

今回は、市民参加型のミュージカルで、公募で集った約60人の市民が、坊っちゃん劇場の協力により、公演までの6ヶ月間に約40回の稽古を経て、感動のミュージカルが披露されました。坊っちゃん劇場の役者さんや八幡浜出身のオペラ歌手 菊池有里子さん、和太鼓集団「雅組」、八幡浜児童合唱団も出演。

大城一郎八幡浜市長・上田浩志市議会議長・井上靖教育長も登場。慶應同窓の伊藤篤司氏も長岡中将役などで出場するなど身近な方が出演し、客席との一体感が素晴らしいミュージカルでした。感動しました。

隣の席が京都府八幡市の堀口市長。忠八が晩年八幡市の自宅に航空犠牲者の霊を弔う飛行神社を創設した等八幡浜市とは交流の深い市です。
加戸元愛媛県知事ご夫妻など多くの来賓も参加。1時間40分があっという間に過ぎ、心豊かなひと時をもたせていただきました。感謝です。ありがとうございました。

【二宮 忠八(にのみや ちゅうはち)1866-1936】

(好奇心旺盛な子ども時代)

1866年、二宮忠八は伊予の国(愛媛県)の八幡浜に生まれました。幼い頃から好奇心旺盛で、ある時カラスの群れが滑空する様子から飛行飛行原理をひらめき、昼夜も問わず研究に没頭しました。

(カラスの滑走してくる姿を見て飛行原理を発見)

そして最初となる模型飛行器「烏型模型飛行器」を完成させ、1891年4月29日丸亀練兵場で飛行実験を行い、約10mの飛行に成功しました。人こそ搭乗していませんでしたが、1903年のライト兄弟による動力飛行機の成功よりも12年も前に、現在の飛行原理へつながる動力飛行機が、日本で初めて空を飛んだことになります。

その後、人を乗せて空を飛ぶことのできる人力飛行機の構想を練り、玉虫の飛ぶ姿をヒントに「玉虫型模型飛行器」を製作しました。そしてこれを陸軍で実用化出来ないかと意見書を提出しましたが、忠八の願いは理解されず却下されてしまいました。自力で資金を作り研究を続けましたが、ライト兄弟の有人飛行の成功を知り、以後飛行機の全ての研究をあきらめてしまいました。
忠八の研究の意味を理解し、その実用化に向けて様々な援助があれば、世界の航空史は、現在のものと異なっていたかもしれません。

(日本航空機の父)

晩年は、自らの考えていた飛行機が現実に世界の空を飛び交うようになったとき、その事故による犠牲者の多さを嘆き、自宅に「飛行神社」を建立し、航空界の安全と航空殉難者の慰霊に一生をそそぎました。

忠八の功績は、有人飛行機を飛ばすには至らなかったが、ライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理に着想していたこと。また、忠八が研究に費やした時代背景は、まだ日本に電気はなく、動力もままならない時代でもあったにもかかわらず、夢の実現に向けて研究に没頭した人生は、近年「日本の航空機の父」または「飛行機の真の発明者」と称されるようになりました。 忠八は昭和11年、70歳でその人生を終えました。